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四人部屋(野村瓜州)

府中の宿場

上記は、立川在住の菊地裕二さん(http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/9371/index.html)が、東京都教育委員会発行の歴史の道報告書 第5集「甲州道中」内の地図を元に作成した図に、さらに四人部屋の位置を付け加えたもの。

≪四人部屋の位置≫"北側の三軒目の旅館「松本」は、経営者の交代はあったが、江戸中期の享保期より旅籠を営む府中きっての老舗旅館である。また同じ並びの数軒先の「亀田屋」も江戸時代より続く和菓子屋である。そしてさらに西に一件挟んで、かつては「四人部屋」という屋号の旅館があった。その主人野村六郎右衛門は瓜州と号した文人で、太田蜀山人とも親交があり、江戸にもその名の知られた旅館であったが、明治に入り廃業したようである。"(東京都教育委員会発行の歴史の道報告書 第5集「甲州道中」より、若干修正しています)

≪野村瓜州の人となり≫神戸(ごうど、甲州街道の府中宿、現在の東京都府中市宮西町、旧甲州街道沿い)にて父の後を受けて旅籠「四人部屋」を営む傍ら、漢学者の野村延陵、国学者の服部仲英について学び、漢詩をよくした。その著に『坦坦草』1巻がある。当時の江戸の文人・趣味人で「四人部屋」の名を知らない者はなかったとされ、瓜州はとりわけ平秩東作、菊池五山、春登上人らと深い交遊があった。後年は「松羅園」という名の塾を開き、子弟の教育に力を注いだ。(Wikiより転載)

四人部屋と天地車

四人部屋跡

旅籠「四人部屋」があった場所は、現在餃子屋さんになっています。その敷地内の角に、府中市の「郷土いろはかるた」の「野村瓜州の四人部屋」が掘られた碑がたっています。

幕末(安政年間)の府中の屋号の記録では、「四人部屋」が残っています。しかしながら、いつまで営業していたかは、不明です。
野村瓜州の孫、助次郎は1823年(文政六年)、今の競馬場北の用水に水車「天地車」を架けます。その際の奉行所に提出したお願い書には、父親の彦六と親戚の万右衛門がサインしています。この万右衛門が当家小澤の先祖(名乗り、1700年代からの墓の施主は、全て小澤万右衛門)と思われ、「四人部屋」の番頭のような立場だったようです。当時の家並み図でも、「四人部屋」の裏に万右衛門という表記があります。
幕末から明治にかけて、野村金蔵が、その水車を管理しています。金蔵は、明治になってから水車のあった八幡町に引っ越しています。この金蔵が、当店現当主の四代前になります。(金蔵の娘が、元々親戚だったと思われる小澤姓を名乗り、以後、小澤と野村二軒の位牌を継いでいきます)。
明治になって、四人部屋の跡地は、「すし由」さんでした。店主の渡辺家は、幕末の騒乱を避けて神田から引っ越されてきたそうです。当家の言い伝えでは、土地は亀田屋さんに買い取ってもらったとなっています。

野村瓜州の墓

高安寺内の野村瓜州墓の案内図高安寺内の野村瓜州墓

野村瓜州(とその直系)のお墓は、府中市内の曹洞宗龍門山高安寺という古刹にあります。直系が途絶えてしまい、今は、直接守る家系がないです。野村家の左右のお墓も、色々と野村家と縁がある(嫁の実家とか)お家のようで、どちらも既に御子孫は府中市内にはおらず、お寺にご先祖のことを聞いてもらったのですが、昔の話は伝わっていないそうです。

地図上の名称について

★旧地名の読み(五月のお祭りの時には忽然と現れる旧地名)
神戸   : ごうど
新宿   : しんしゅく
京所   : きょうず
御旅所 : おたびしょ
六所宮 : ろくしょぐう