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お米雑学

★ブランド米とブレンド米

平成14年10月9日

現在は、ブランド米が全盛です。「こしひかり・ささにしき」、から始まり、「あきたこまち」「ひとめぼれ」など、銘柄米ばかり目に付きます。しかし、昭和40年前後までは、米屋が独自のブレンドにより、上等米・特用米など何段階かのお米を作り販売していました。そのレシピが米屋のプライドであり、他店との差別化でした。

ちなみに、当店の場合 精米調合は母、精米自体は祖父が担当していまして、その時入荷しているお米の種類を見ながら、独自ブレンド品を販売していました。当時のレシピが何十種類あったかはすでにわかりません。その後の事情により、必要がなくなってしまったからです。今になってみると、何とも惜しい気がします。

ブレンドとは、値段に応じて様々な産地と品種の特性を組み合わせて各クラスのお米を作ることです。例えば、ツヤも粘りもあるがどうも甘味に欠けるお米と、甘味はあるのにツヤ・粘りがないお米をブレンドすると双方の短所を補えます。このクラス毎のお米をブレンドすることに加えて、年間通じて同等のお米をお届けする技術が米屋の腕の見せ所でした。

当時は、現在のような低温倉庫もなく、また米の水分が今より高かったので、梅雨を過ぎるとお米の品質が目に見えて下がりました。従い、新米が出揃うまでの端境期をどう乗りきるかも大事な要素でした。例えば、美味しいお米をぎりぎりまで残しておき、低クラスのお米に使用したり、甘味・旨みはないが新米なりの粘り・ツヤのある早場米(相場が高い)を利用したり、通常の原価率にこだわらない運用が必要とされました。

同様の意味で、新米が出たからと100%新米を届けることや特に品質の良いお米が入荷したからと喜んでそれだけでお米を作ったりすることもありませんでした。その後は、下がる一方になるからです。米屋は、年間通じての平均値でお米を販売したいのですが、消費者は、最高値だけが許容値になるからです。

こういうブレンド事情を変えたきっかけは、「こしひかり・ささにしき」の登場と認知でした。

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平成14年10月10日

「新潟こしひかり」「宮城ささにしき」という東西横綱ブランドも最初の頃は、1990年前後の「魚沼こしひかり」のようなマスコミのはしゃいだ取り上げもなく、徐々に徐々に消費者に浸透していきました。当時、大部分の米屋では、「初星」などの、それ自体は大して美味しくない変わりに、「こしひかり」に混ぜても味を変えない増量米を混ぜて販売していたと思われます。前述のように安定供給するという趣旨からすると、絶対確保できるとは限らない玉(ぎょく)である「こし・ささ」を年間通じて販売するための苦肉の策でもあり、ある意味では、原価率を下げるためでもありました。勿論、どちらの意味合いが大きかったかは、米屋によって異なっていたでしょう。そして、米屋のブレンドを絶対悪とみなすマスコミ風潮が出てきたのもこの頃でした。

「こし・ささ」で定められた傾向が絶対的になったのは、「あきたこまち」だったと思います。

銘柄米のページでも書いたように、それまでの秋田は山形と並ぶ増産だけを考えた産地でした。ひたすら、味よりも量。「こし・ささ」では取れて十俵(600キロ)ですが、十五俵も取れる「ふじみのり」を全面的に作付けをしていました。新潟・宮城に大きく遅れを取った秋田県が満を持して発表したのが「あきたこまち」でした。「美味しい、秋田のお米とは思えない」と業界でも評判で、例年の政府米の買取価格交渉と3K(米・国鉄・健保が国家予算のお荷物)という話題以外で米がマスコミに取り上げられるきっかけを作ったとも言えます。

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平成14年10月11日

マスコミも報道した「あきたこまち」人気でしたが、新しい品種は最初の1〜2年、急激に人気が出ても供給が追いつきません。どれほど人気が出て販売できるか見通しがつかないため、また人気を確実にするために品質のばらつきを極力抑える必要もあり、作付け産地と農家をしぼります。そのために、春過ぎに品物が切れることになります。「あきたこまち」も初年度はそうでした。

「もう、在庫がありません」と米卸に言われるのですが、どういうわけか、スーパーでは販売されているのです。「お米屋さんにはないけれどスーパーにはある」と言われるのがいやで、結局、仕入れたお米を薄めて商品を作るしかなくなります。米屋のオリジナルブレンド品がなくなる一方で、ブランド米のブレンド化という傾向が加速していった、そんな時代だったと思います。

それが爆発的にひどくなったのが、いつの頃か始まったマスコミによる「魚沼こしひかり」の異常なほどの取り上げ方と、ディスカウントショップやドラッグストアでの米販売開始でした。米屋仲間では、「あれが本物だったらうちが仕入れに行く。卸より買うより安い。」とよく話していました。ちなみに、安売り販売のお米の多くは、他県から来ていました。今でもそのようです。近所のケースでは、神奈川・埼玉・山梨の精米工場のお米でした。現在は多少違いますが、以前は他県の精米工場の場合、食糧事務所はお手上げでした。いわゆる縦割り行政ですね。

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★お米と「日本の歴史」

平成15年5月27日

「日本の歴史」とお米がどう関係してくるのでしょうか?学校で習った歴史は、年号と出来事の無味乾燥な繰り返しだったように記憶しています。ところが、お米を背骨にして日本の歴史を眺めると、なんとも違って見えてくるはずです。それほど、日本の歴史(特に明治以前)は、お米を軸に展開してきたと言えます。

これを教えてくれたのは、富山和子(とみやまかずこ)さんと司馬遼太郎さんです。富山さんの『生きているシリーズ』(川・森・道・お米)と司馬さんの『この国のかたち』。参考になります。

まず、縄文時代から弥生時代への移り変わり。紀元前一万二千年頃から続いた縄文時代。紀元前五百年くらいからと思われる弥生時代(さらに、五百年ほどさかのぼれるような話しもありますが)。一般的に、縄文時代は採集と狩猟の時代、弥生は稲作の時代と分けられます。稲作はまぎれもなく、大陸から伝わったもの。縄文日本人と弥生日本人の骨格・顔相は随分違います。縄文人に良く似ているのは、現在の沖縄・アイヌの人達で、弥生人は縄文人と朝鮮半島からの移住者の混血と考えられます。そして、稲作技術をもたらしたのがこの朝鮮半島からの移住者達です。

縄文期でも既に定住と栗などの栽培が行われていたことが、青森三内丸山遺跡などからわかっていますが、この定住と農作物の栽培がさらにひろまるのが稲作を基本とする弥生時代です。そして、稲作はムラ全体の協力がなければできません。稲作をスムーズに行うには、リーダーが必要です。逆に、最も再生産性の高い穀物である稲は、人口の増加を実現します。稲作は、ムラの起こりとその発展を意味します。

そして、より良い土地を、より高い生産性を求めて、戦いがおきます。ムラは、お米を全員の協力により作るなかで、一蓮托生の組織となって戦える。その一例が、佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。水を引いて、田んぼを作り、堀を作り、物見やぐらを立て、ムラを守る。規模は違いますが、実はこれは戦国期の国作り(新田開発と城作り)と同じです。弥生時代から戦国期まで続く長い長い戦いの時代。最初はムラとムラの争いから、最後には国と国の戦い、に至るこの時代。きっかけはお米、と言っても過言ではないと思います。

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平成15年5月29日

最初の米作りはどのような土地で行われたでしょうか?現在の米どころ、例えば加賀平野や関東で言えば利根川流域などでしょうか?水量のある大きな川の周りなら、水を引くのも簡単だし、土地は平らだし、いくらでも田んぼが作れそうです。しかし、そうではないのです。最初はまず、谷津とか谷戸と呼ばれるような狭い谷あいのところに田んぼが作られたと考えられます。それは何故か?

東京都府中市の発掘でも、最も古い遺跡は市内を東西に走る二つの段丘(ハケ)の下にそれぞれ見つかっています。鉄製の農具が十分普及する以前は、人の定住には水路や井戸を掘らなくても安定して飲める水が必要で、それは場所としては段丘や谷あいを意味します。何故かというと、日本の川は、源流から河口まで短く急勾配で、暴れんぼうでした。明治のお雇い外国技師が日本の川を見て、「これは川ではない、滝だ」と言ったそうです。今のようなコンクリート堤防もない時代、豪雨になると川は流れるルートが大幅に変わるほど氾濫しました。例えば、利根川の別名「坂東太郎」は、坂東=関東の暴れ者、という意味です。

このような大河流域は、到底人が住める環境ではありませんでした。まず、山あいや段丘のように自然の涌き水をベースにムラが始まったと考えられます。今のように、平野部に家や田畑を作れるようになるのは、治山・治水の技術が発達した室町から戦国時代になってからです。そして、この治山・治水の発展は取りも直さず米作りの為であり、米作りの発展が地域・国の発展を意味しました。

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平成15年6月7日

最初は、小さな田んぼから始まった米作りですが、吉野ヶ里遺跡(紀元前三世紀から紀元後三世紀までの歴史を持つ)を見ると、紀元一世紀には1000人単位のムラを養えるだけの生産力を有していたことがわかります。小さな集落から始まり、田んぼを開発するのに大集落化(ムラ)していきます。一年を通じての用水や仕事の管理、他のムラとの戦争・協調などのためにリーダー(村長=ムラオサ)が必要となってきます。身分が発生したと言ってもよいでしょう。そのような流れの証明が吉野ヶ里遺跡です。リーダーの大きな墳墓と一般人の墓が別にあります。1000人を養うための倉庫も発掘されています。お米は湿度に気をつければ長持ちします。採集時代には不可能であった、定住と集落化が可能です。

吉野ヶ里のようなムラの集合体がクニです。中国の三国時代、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国もその一つです。邪馬台国がどこにあったかという古代史論争は棚に上げておくとして、このようなクニ同士の戦争・協調などの結果、大和政権が生まれます。そして、古墳時代となります。

ここで特筆すべきは、吉野ヶ里の環濠集落(集落を掘りで囲み防御する)も古墳も、さらには戦国期の城築も同じ形式の土木工事です。田んぼ作りと同じです。そして、田んぼの大規模化、工事の大規模化を可能にしたのが、鉄器の使用と普及です。

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平成15年6月10日

木製の農具ではなかなか地面を掘ることは出来ません。田んぼを作る生産性は限られます。最初の鉄器の農具も、全体が鉄製だったわけではなく、木製の鋤鍬に鉄製の刃先を付けるだけのものでした。それでも、大変な生産性の向上につながったはずです。鉄はまた武器にもなります。鉄器の使用は食糧の確保と同時に戦闘力の向上をも意味しました。

世界最古の製鉄は紀元前1500〜2000年ごろヒッタイト帝国(現在のトルコ国内)で始まったとされています。ヒッタイトは鉄の短剣・やり、戦車で、周囲の国を征服していき、鉄作りの技術が世界に伝播していきました。中国の製鉄の始まりはヨ−ロッパよりかなり遅く、紀元前600年ごろとされていて、西暦110年には後漢が全国46ヶ所に鉄官(官営製鉄所)を設置し、鉄を専売したとの記録が残されています。朝鮮半島の製鉄の歴史は「後漢書」 の「東夷伝・弁辰条」によると、西暦2世紀中ごろとされています。

日本では、縄文時代の遺跡(紀元前400年頃)から鉄器が発掘されていますが、当初は中国からその後古墳中期ごろ(5世紀)まで、朝鮮半島から鉄器の材料が輸入されていて、それを加工していました。中国の三国時代に書かれた『魏志』東夷伝弁辰条に「鉄を出す。ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とあり、当時の日本では鉄を朝鮮半島から輸入していたと考えられています。

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平成15年6月13日

米作りの伝来については諸説ありますが、少なくとも縄文の終わりまでには幾つかのルートで九州に伝わり、紀元前三世紀頃まず西日本一帯に広がり、弥生前期の終わり(紀元前一世紀)には東北地方北端にまで達した、と考えられていました。ところが、稲作の伝来と伝播の早さについて見なおしをせまる考古学の発見が相次いでいます。

まず、紀元前1000年頃の縄文時代に、福井県あたりで、中国の福建米(赤長米)が栽培されていたことが分かりました。また、平成3(1991)年岡山県総社市南満手遺跡から紀元前1500年頃の稲の細胞化石(プラント・オパール)が発見されました。しかも土器と一緒に出土した石器の中には、栽培に用いたとも考えられる土掘り具(打製石鍬)や収穫具(打製石鎌や石包丁)が含まれていました。

さらに平成6(1994)年、岡山県美甘(みかも)村姫笹原遺跡から発掘された紀元前2500年頃の土器片から、稲の細胞化石(プラントオパール)が検出されました。そして平成11(1999)年、日本最古のイネ細胞化石が発見されたことが、岡山理科大学において発表されました。この化石は、朝寝鼻貝塚という遺跡の紀元前4000年頃の地層から発掘されました。

稲作伝来の歴史がどんどん縄文期をさかのぼる一方で、伝播の時期についても新たな発見があります。青森県津軽の田舎館(いなかだて)遺跡の水田跡は、紀元前250年前後のものと認められ、出土した土器からジャポニカの炭化米が発見されています。今後も、私達の予想をはるかに越える発見があることを期待したいと思います。

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平成15年6月16日

稲の伝来についてさらに興味深い調査がなされています。それは、縄文期の稲と弥生期の稲の違いです。縄文期の稲は熱帯ジャポニカなのに対し、弥生期に入ると温帯ジャポニカが増えてきます。熱帯ジャポニカは野生に近いイネで、水が少なくても育ちます。水田でも畑でも作れますが、肥料を与えるなど栽培環境をよくしても温帯ジャポニカのように収量は上がりません。畑作向きの稲といえます。これなら、高度な土木技術がなくても栽培できます。この栽培技術が縄文期に長年に渡り蓄積された後に、弥生時代になって温帯ジャポニカが外来文化・技術と共に伝えられた、このように考えられます。

遺跡からの発掘物の研究によれば、熱帯ジャポニカは弥生期に消滅したのではなくて、平安時代まで温帯ジャポニカとともに栽培され続けていたようです。江戸時代の遺跡からも発見されるそうです。下分遠崎遺跡(高知県香我美町)で弥生前期末(紀元前200年頃)の地層で出土した炭化米の中に熱帯ジャポニカが発見され、弥生中期(紀元前100年頃)の滋賀県下之郷遺跡からも熱帯ジャポニカ・温帯ジャポニカが混在していたことなどがわかっております。さらには、弥生後期(紀元前1―紀元3世紀)の水田遺跡としても有名な登呂遺跡(静岡市)からも熱帯ジャポニカが発見されていますし、前述した青森の田舎館遺跡で発見された炭化米も熱帯ジャポニカでした。

弥生時代になると、あっという間に日本中に水田が広がり米作りが行われていたというイメージが一般的ですが、これは修正が必要で、焼畑農法による稲作も同時に行われていた、むしろそちらが主流であったと主張する研究者もいます。水田で温帯ジャポニカを栽培すれば、収量を上げにくい熱帯ジャポニカに比べ生産性は上がります。しかし、水田を作り用水を管理する難しさや、熱帯ジャポニカは畑作で手間をかけずに安定した収量が期待できることを考慮すれば、雪崩をうつように温帯ジャポニカにシフトしたと考えることは確かに非現実的かもしれません。

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平成15年6月23日

日本の田園風景の中で、松はとても自然にそこにあるかのように思われています。また、宮城の松島などの名所でも、松はまるで日本古来のものであるかのようで、日本中で松枯れが問題視されています。しかし、松は本来、日本の気候風土に最も適した木ではありません。日本人が米作りをしてきた歴史の中で人為的に作った自然の一部です。ここでも、お米は重要な役割を果たしています。

かつて日本の南半分はうっそうとした暗い原生林に包まれていました。一年間常緑の葉を持つカシ、クス、シイ、タブ、ツバキ等の、いわゆる「照葉樹林」です。太古の昔、照葉樹林帯は中央アジア(現ブータン)を起点として中国南西部を経て日本に至るまで、ベルト状に分布していました。照葉樹林帯では、食文化、農業、風習、宗教、伝説に類似の物が多く、同種の文化圏が時空を越えて発生していました。たとえば、ヤムイモやタロイモ、アワ・ヒエ・イネなどのモチ種、そしてナットウなど、数多くのネバネバした食品を好む性質、茶やシソの栽培、麹から作る酒、養蚕、漆器文化などです。これらは、照葉樹林帯独自の文化であり、これより北にも南にも存在しなかったのです。

一方、日本の北半分はナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなどの温帯落葉広葉樹林に覆われていました。南方に連なる照葉樹林文化に対して、朝鮮半島から東アジア一体に連なる温帯落葉広葉樹林帯の文化は「ナラ林文化」とも呼ばれています。

ナラ林文化の特徴は、照葉樹林帯よりも食料資源が豊富であったことです。食べられる木の実が大量にあり、日光が土に届くため森の下草である植物も豊富でした。そこには当然狩猟対象となる動物も多かったのです。堅果類(クリ・クルミ・トチ・ドングリ)、球根類(ウバユリなど)の採集。トナカイ、熊、鹿、海獣の狩猟。そして、川にのぼって来るサケ・マスの漁撈。これらの狩猟・採集文化により、一定の人口までは充分に生活出来たのだと思われます。それを証明するかのように、日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で発展しました。事実、縄文時代の遺跡群は圧倒的に東北日本に集中しています。

このような植物相が変貌するのに、縄文から弥生にかけてのお米の伝来が関わってきます。

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平成15年7月5日

植物相の変化の話しの前に、あらためてお米の伝来ルートを考えてみます。

お米の伝来ルートはおおむね三つ考えられますが、それぞれ文化的背景・技術(人)が日本に入ってくるという側面も持っています。熱帯ジャポニカは、(A)南方から奄美諸島を経るというコース。温帯ジャポニカは、(B)中国揚子江あたりから直接もしくは朝鮮半島の南部を経て、さらに(C)中国淮河あたりから朝鮮半島を経て、という三つのルートです。

縄文人は照葉樹林や広葉樹林の森を拓きながら、雑穀や栗などを栽培していきましたが、ここに熱帯ジャポニカが入りこんできます。あくまでも雑穀の一部の米栽培でしたが、南からの伝来ルートから同時に伝わったと思われる、踏耕、夏正月、貝輪などの南島特有の農耕文化も広がります。夏正月はもっぱら沖縄以南の風物ですが、踏耕の跡は日本各地の遺跡に見られます。

焼畑農法は、確かに森を焼きます。しかし、しばらくの栽培期間後は休耕し、日本の湿潤な気候下で30年くらいの周期で森は回復しますので、絶対的な植物相の変化をもたらしたとは思えません。

さて、(B)(C)のルートに関してはどうでしょう。このルートに付随するもしくは組み合わされる文化要素は、(B)高床穀物倉庫、鵜飼い文化、潜水漁労、(C)大陸性磨製石器群、青銅器文化、剣と鏡、ナラ林文化などです。このような要素が、日本に伝わりながら同時にアレンジされ、日本的稲作文化が形成されていきました。

山内丸山遺跡を見ると縄文中期で既に、森を切り開いて大量の木材を使用していたことがわかります。そこに米作りが加わると木材需要を増やします。先に、熱帯ジャポニカは畑でも栽培できると書きましたが、水田も作られていたはずです。用水の確保など条件が合えば、水稲は収量が上がりますから。そして、登呂遺跡の畔跡などから判断すると、水田作りにも大量の木材が必要です。高床式倉庫もそうです。そして、米が人口を増やせば、この木材需要の増加サイクルが加速されます。

木材の大量伐採が必要になる時代がやってきたと言えるかもしれません。

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平成15年7月16日

田畑を拡大するために森林を切り開く、さらに水田の畔や用水の管理に木材を使うと森林が減ります。裸になった森はどうなるでしょうか?まず雑草が侵入します。次に、潅木が生え始め、土壌の成熟がもたらされ、コナラなどの落葉広葉樹が成長します。本来の照葉樹林帯では、さらに土壌が成熟し常緑樹が生え、最終的には広葉樹を排除して常緑の森に戻ります。このような森を極相林と言います。裸地から極相林への遷移に300〜500年かかるそうです。

ところが、日本の里山林は、人々に利用され、樹木が伐られつづけたために、落葉広葉樹のままに保たれ、遷移が進行しないですんできたのです。日本人は縄文時代から、森林の恵みを利用しながら維持する生き方をしていましたが、稲作が伝わって森林を切り開いて田畑を拡大するようになっても、森林を大切にしました。

●落葉・落枝や下草を採って肥料を作り田畑を養い
●木材を切り出して道具を作り、住居や土木工事を行い
●薪・柴・木炭など燃料をまかないました

そして、農村での日常生活に不可欠のものとしての森林を、持続可能な恵みの供給源として維持し改変してきました。それが里山ということです。西日本では、元はシイ・カシなどの照葉樹林だったものが、過剰利用で土壌が痩せ、そのような土地でもよく生育するアカマツ中心に更新され、林床にマツタケが出るような里山が多く見られます。一方、東日本では、クヌギやナラの中にクリやサクラが混じっている「雑木林」の里山が典型的です。

木材として金になる杉・ヒノキを植林するために、旧来の照葉樹林・広葉樹林の森を失うという近世の歴史があります。しかし、その前に、約二千年かけての植物相の変化があったわけで、そしてその背景が稲作の伝来ということです。

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平成15年7月27日

植物相の話しから、温帯ジャポニカ伝来の話しに戻ります。お米のDNAを調べると、中国には「abcdefgh」という7つのタイプがあり、「b」が多く「a」が少なく、朝鮮半島には「acdefgh」というタイプがあり、「a」が 60%を占めます。そして、日本には「ab」タイプしかないそうです。これはなにを意味するのでしょうか?

そうです、以前紹介した二つの伝来ルートを裏付けるということです。「b」タイプは中国大陸から、「a」タイプは朝鮮半島から伝来したと推定されます。そして、さらに当時の日本人が種の選別をしたのかもしれないという意見もあります。中国に7つのタイプがあり、朝鮮半島にもその内6つのタイプが入っているのに、日本に2種類しか入ってこなかったというのは考えにくいという意見です。単なる受身の立場ではなく、主体的に関与したのではと考えると、文化受動的であり続けたという日本のイメージに一石を投じる見方かもしれません。

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平成15年8月4日

温帯ジャポニカの伝来について弥生人が主体的役割を持っていたかもしれないことに加えて、さらに栽培においても弥生人が工夫をしていた痕跡があります。

つまり、混植をしていたと思われることです。遺跡跡から出土する米粒の大きさは、今の品種の五〜六倍のバラツキがあるそうです。現在、田んぼでは単一品種の栽培が一般的です。さらに、県毎に奨励品種があり、米種の数は非常に限られています。実は、単一品種の栽培は危険な側面を持っています。病気・害虫・災害の被害が集中しやすいからです。多様な品種は、種の多様性ということであり、自然の多様性は安定した状態を意味します。

混植の意味はもう一つあります。それは、突然変異の確率がきわめて高まることです。熱帯ジャポニカも温帯ジャポニカも日本より暑い地域の気候に適応した「晩成(遅咲き)」の稲です。しかし、日本は縦に長い国土で、寒い青森にまで稲作が伝わるには「早稲種」が必要です。 つまり晩成の稲が稔る頃、寒冷地ではすでに暑さを過ぎていて収穫できません。北国の気候に適した、早く稔る種類がないと、稲作の北上はありえなかったのです。

日本に稲作がもたらされて、九州から東北北部に伝播するまで数百年、単一の品種がこのような早さで、緯度差20度の広範囲の地域に広まったというのは考えにくいことらしいのです。稲の開花時期は遺伝子により決定される事が証明されていて、一つの品種が環境に合わせて自ら「早生」や「晩生」を調節できたはずはありません。これは、当初「晩生」だった稲が北進するに当たって次第に寒冷地に向くよう「早生」化していった、と考えられます。ところで、突然変異の発生する確率は1/100000(10万分の1)程度と考えられており、突然変異に頼っていてはとても猛スピードで北進する訳にはいきません。

実は、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを交配すると、一定の率で「早生」のイネが出現する事が実験で確認されているそうです。つまり、北方と南方から別々に日本列島に渡来した2つの稲は、混在し交配を行い、北日本でも栽培可能な「早生」品種を誕生させ、そしてその品種が日本列島を北へ北へと猛進していったと考えられるのです。

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平成15年8月28日

伝来初期の米作りが、焼畑農業から始まり、水稲栽培へと徐々に移行していく中で、農具・工具も変わっていきました。既述の鉄器利用です。

初期の水稲栽培は、湿田に籾を直播きし、石包丁で穂首を刈るという単純なものでした。農具としては、木鍬・木鋤・田下駄・木臼などの木製農具が用いられ、穀物は高床式倉庫などに保管されました。弥生後期になると、鉄製農工具の普及で農業技術は著しく発展し、石包丁は鉄鎌に、磨製石斧は鉄製の斧に、そして鉄の刃先をつけた鍬もあらわれました。水田は平地につくられるようになり、静岡県登呂遺跡では、堅固な畦で区画された大規模な水田と、灌漑・排水のための水路が発見されています。

これを鉄の利用の側から見てみます。大陸から鉄の文化が伝わると、道具の世界ではまず縦斧が、おくれて横斧が石斧から鉄斧へと置き換えられ、弥生時代の終わり頃には石器は全く消え去り、完全な鉄器の時代となりました。弥生時代終わり頃の村の遺跡である登呂・山木両遺跡からは、多量の柱・壁板・梯子などの建築部材や水田整備のための杭・矢板などが出土しており、その表面や切断面には、斧・鑿など明らかに鉄器で加工した鋭い刃の痕が残されています。

この建築部材からは、収穫した稲穂を貯える高床倉庫が復元されていますが、全ての部材は「ほぞ」や「相欠き」によって結合され、鉄器の登場によって木材の加工がより精巧になって、木と木を組み合わせる技術が発達したことを示しています。

米作りに伴う全ての作業、つまり水を引き、田んぼを作り、稲を収穫して保管する、この流れの全ての工程において、鉄器利用が促され、逆にまた鉄器の普及が水稲栽培を促進していった、このような相乗作業があったと考えられます。

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平成15年10月15日

「弥生時代の終わり頃には石器は全く消え去り」と書きましたが、国内の製鉄はいつから始まったのでしょうか?これまでは、弥生時代には行われず、5世紀になってからという意見が主流でした。

この説によると、鉄器の加工は国内で行いますが、原料は朝鮮半島から輸入していました。では、どんな形で輸入していたのでしょうか?鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(金へんに廷と書き、地金・延べ金を示す。長方形の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた。)などが考えられますが、まだよく分かっていません。日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。

一方で、弥生時代に製鉄はあったとする意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです

  1. 弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
  2. ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
  3. 弥生時代にガラス製作技術があり、1400〜1500℃の高温度が得られていた。
  4. 弥生時代後期(2〜3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。

広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかと騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源が国内にないという不整合性を説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、まだまだ古代における製鉄の歴史が発掘されるかもしれません。

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平成15年10月16日

弥生時代に製鉄が行われていたかという議論は棚上げにするとして、古代の製鉄を支えたのは朝鮮半島からの渡来人であることは間違いないでしょう。現代の製鉄は鉄鉱石を原料としますが、古代日本の山陰地方における製鉄は砂鉄を原料としていました。そして、山陰地方は砂鉄に恵まれた地域でしたが、砂鉄が取れれば製鉄が出来るわけではありません。製鉄は精錬・鋳造・鍛造という大きな三つの工程があります。精錬前にも細かい工程があります。これら一連のプロセスをこなせる技術集団を必要とします。彼らは、朝鮮半島から渡来したと考えられます。

兵庫県から西は花崗岩の土壌で、朝鮮南部と似ています。砂鉄が取れたのです。しかし、製鉄集団がわざわざ渡来したのは何故でしょうか?まず、古代の人の往来は、現代では考えられないくらい、緩やかなものでした。国境や法律はなく、自分達の事情でいくらでも行き来できたはずです。次に、朝鮮半島と日本の気候の違いです。朝鮮半島に比べ、モンスーン地帯にある日本ははるかに湿潤です。そして、この湿潤さが製鉄に大きな意味を持ちました。古代の製鉄は、とにかく木を食いました。例えば、13トンの砂鉄と13トンの木炭から取れる鉄は3.6トン。森を潰しながら鉄を作っていたわけです。

乾燥している朝鮮半島では、一度森を潰すと、山の表土が飛び禿山になってしまいがちです。禿山はよほど手と時間をかけないと復元できません。それに対して、日本列島では、30年で森が回復するのです。山から山へと生産を移しながらも、山の木々が自力で回復してくれるのです。山陰地方は、製鉄集団にとって、もってこいの条件を備えていました。

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平成15年11月17日

山陰地方は製鉄集団にとって好適の土地でしたが、山陽地方は若干異なりました。山陽地方は地中海気候の為に、山陰のような森林回復性がありません。製鉄に伴う大量の木材消費のために、膨大な地域に及ぶ森林が数百年にわたって伐採され続け、東大寺再建のための伐採、塩田のための木材需要も重なり、山陰地方には禿山が多いのです。花崗岩の地質は禿山のために風化しやすく砂の多い土になります。それが白浜青砂の風光明媚な海岸線を生み出しました。

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平成15年11月19日

弥生時代に続く、三世紀後半から始まる古墳時代。最大の古墳は、かって仁徳天皇稜と呼ばれていた大山古墳。五世紀中ごろから後半の築造だと思われていますが、三重の濠が周りを取り囲んでいます。これだけの建造物を作る土木技術と動員力があったわけです。

吉野ケ里遺跡などの環濠集落が拡大発展していった弥生時代、鉄器の使用による米作りの進展がその背景にあったことは前述した通りです。そして、田んぼを作る技術、すなわち、「土地を均(なら)し、堀を作り、水を引く」ことはイコール古墳を作る技術です。木製・石器の道具よりはるかに生産性の高い鉄器農具・工具の使用により、さらに大きな新しい田んぼを作り、より大きな集落を作る。そして、集落どうしの戦闘にも鉄器が使用され、より多くの鉄器を持つ集落が周囲の集落を従えて、豪族として力を伸ばす。そして、豪族が自分の実力を誇示する一つの道具として古墳を作る。より大きな古墳は、より大きな実力を示すわけです。

鉄器の使用・豪族の発展・古墳築造は、米作りを中心軸にして見るとその姿がより鮮明に見えてきます。この先に大和王朝による統一がありますが、天皇家の行事の多くが稲に関係した物が多いことを思うと、それだけ米作りの持つ意味が大きかったことがわかります。

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平成15年11月23日

農具の発展が新田開発を意味し、鉄製の農具・工具を所有する者が豪族として力を備え、古墳などで自らの実力を誇示する。一見、製鉄は稲作にとって良いことばかりに見えますが、実はある緊張関係にあります。

古代の製鉄は「たたら製鉄」と呼ばれますが、野たたら時代(製鉄開始から中世位まで)と永代たたら時代(中世末(戦国時代)あるいは近世(江戸時代))に

特に永代たたら時代に入ると、製鉄による環境汚染がひどくなったようです。しかし、野たたら時代でも程度の差こそあれ、環境汚染はあったはずです。木炭のための森林伐採・砂鉄採取のための山の大規模切り崩しや河川への土砂および汚水の流入は、下流域の農民達にとっては大変な問題です。

これを象徴するのが、 です。河川上流の製鉄により被害を受けるのが下流の米作り集団。その米作り集団を代表する天皇家の遠祖が、製鉄集団を従えるという話しだという指摘です。

映画「もののけ姫」は室町時代を背景にしていますが、その中でも製鉄集団が他集団との緊張関係にあることがテーマの一つです。農具になり工具になる鉄は大変重要なものですが、一方では製鉄という業は自然破壊でもあり、農業にとって厄介な面も持つものでした。

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平成16年1月13日

古代の製鉄、「たたら製鉄」。現代の日本語にもその痕跡があります。「地団太を踏む」「変わり番子」などです。

地団太とは、「地踏鞴(ジダタラ)」がなまったものです。地踏鞴とは炉に空気を送り込む吹子のことです。必死に足で踏んで空気を吹き送る動作が、足を踏み鳴らして悔しがったり怒ったりする様子に似ていることからこの言葉が出来たといわれています。

また、地踏鞴を踏む人を番子(ばんこ)といい番子が疲れて交代する事を「変わり番子」と言い、これが現在の変わりばんこの語源です。

映画『もののけ姫』でも、地踏鞴を踏みつけている場面が出てきました。

最近、たたら製鉄について非常に分かりやすく書かれたサイト(もののけ姫と「たたら」)がありました。ご参照下さい。

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平成16年1月14日

古代製鉄には一つ興味深い点があります。

たたら製鉄では、原料に砂鉄を使用すると書きましたが、古代、鉄鉱石も使用されていました。山陽地方(とくに岡山・広島(備前、備中、備後))と琵琶湖周辺に限られているようです。そして、古事記には、応神天皇の時代(西暦300年前後)に百済より韓鍛冶(からかぬち)卓素と呼ばれる名匠達が来朝したり、敏達天皇12(583)年に新羅より優れた鍛冶工を招いて刃金の鍛冶技術を学んだと書かれています。これは鉄鉱石を原料とする製鉄法と考えられるようです。一方、山陰では、出雲を中心とする砂鉄精錬の歴史があります。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを暗示しているのかもしれませんし、古事記などの日本統一の記述にも関係がありそうです。

古事記では、天皇家の祖先である天照大神(アマテラスオオミカミ)によって高天原(たかまがはら)を追われた素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲に降り立ち、そこで八岐大蛇(やまたのおろち)を征伐し、その後、大国主命(オオクニヌシノミコト)に国土経営を託します。大国主命は様々な苦労を経て豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)という豊かな土地にしていきます。しかし、それを見た天照大神は、自分が素戔嗚尊を追放して行かせた土地であるにもかかわらず、「本来は自分達(天つ神)が支配すべき土地で、国つ神が傍若無人な振舞いをしている」と言い、国を譲るようにせまり、最終的に大国主命は国を譲ります。

大和族が重要な製鉄産地を背景に持つ出雲族を征服(懐柔?)して、さらにその後、熊襲(くまそ)・蝦夷(えみし)を征服していき、日本を統一していくという古代歴史を想うと、大和族と出雲族の製鉄方法の違いがどういう意味を持ったのか想像してしまいます。古代、いつどこから来た渡来人がどのように日本に居つき、その後、どのように朝鮮半島と交流を持ち、製鉄その他の技術を身につけていったのか、不明なことばかりですが、それだけに想像力をかきたててくれます。

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